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C 鐵舟寺



鉄舟寺の由来

鉄舟寺はもと久能寺といい、今の久能山にあって、およそ一千三百年の昔、推古天皇の時代、国主久能忠仁公によって創立せられ、奈良朝の初期行基菩薩が中興せられた。
当時坊中三百六十、衆徒一千五百人もあり、豪盛をほこっていた。又鎌倉時代以後の貴重なる文献や、仏像、仏画、納経、什器等数々の宝物が今日迄寺に残されてある。
降って武田信玄が今川氏を攻略し駿河に入るに及んで久能の険要に築城することゝなり、天正三年(今から三百六十年前)現在の場所に移されたのである。後武田氏は亡されたが、徳川幕府も古来からの名刹久能寺を愛護し御朱印地を賜った。
世が改まり明治御一新となるや、その混乱の中で長く栄えた久能寺も次第に散乱し、住職もない廃寺となってしまったのである。
幕末の俊傑、山岡鉄舟はこれを惜しみ、再興せんことを発願し、仮本堂に今川貞山師を迎えて開山とし、広く寄進を募ることにしたのである。明治十六年、鉄舟四十八才の時である。
ところが、鉄舟は明治二十一年七月、五十三才で惜しくもこの世を去り、鉄舟寺の完成を見ることが出来なかった。
清水の魚商芝野栄七翁は元来信仰の篤い人であったので、鉄舟の意志をつぎ、幾多の困難を乗り越え、明治四十三年三月十日、鉄舟寺の完成を果したのである。
かくて、名刹久能寺は蘇り、清水の霊場鉄舟寺は永久に伝わることになったのである。
境内には四季折々の花多く、春ともなれば桜花欄満と咲きほこり、詩情また豊かに茶会、句会に利用され、あるいは古美術行脚の人達が乞うて一夜の杖を止める事が多い。本堂前富士に向って鉄舟居士の歌碑が建ち、
  『晴れてよし曇りてもよし不二の山もとの姿はかはらさりけり』
と一しお趣きをそえている。                    (「鉄舟寺のしおり」より引用)





:境内の斜面に建ち並ぶ墓石





山門













本堂





熊野十二社





鐘楼



  

山岡鐵舟の墓





山門脇で見守る地蔵





現代的な道祖神





刷毛 (ブラシ)





歌碑





芝野榮七翁像





本堂前





本堂脇





みがわり観音堂






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